あれは、私がまだ社会人になって間もない、二十代前半の頃でした。会社の先輩のお父様が亡くなられ、私は初めて、同僚たちと連れ立って、通夜に参列することになりました。マナー本を読みかじり、黒いスーツと数珠は用意しました。問題は、香典でした。「先輩のお父さんだし、一万円くらいは包むべきだろう」。そう考えた私は、銀行でおろしたての、ピンと張った一万円札を、コンビニで買ってきた不祝儀袋に入れました。その時の私は、「きれいなお札の方が、丁寧で良いに決まっている」と、何の疑いもなく信じ込んでいたのです。さらに、私はもう一つの過ちを犯していました。不祝儀袋の裏側の折り返し方です。結婚式のご祝儀袋と同じように、「幸せが逃げないように」と、下側の折り返しが上に来るように、きっちりと折ってしまったのです。通夜の会場に着き、受付の列に並んでいる時、隣にいたベテランの先輩が、私の不祝儀袋をちらりと見て、小声でこう言いました。「おい、そのお札、新札じゃないか?それに、袋の折り方も逆だぞ」。その一言に、私の頭は真っ白になりました。先輩は、呆れたように、しかし哀れむように、その場でこっそりと作法の意味を教えてくれました。「新札は、不幸を予期していたみたいで失礼なんだ。折り方も、弔事は悲しみを流すように、上が下を向くように折るのが常識だぞ」。顔から火が出るほど恥ずかしく、私はその場で泣き出してしまいたい気持ちでした。慌ててトイレに駆け込み、新札に無理やり折り目をつけ、袋の折り方も直しました。しかし、一度かいた恥は、消えません。受付で香典を渡す時も、ご遺族の顔をまともに見ることができませんでした。この苦い経験は、私にとって、マナーの教科書となりました。作法とは、単なる形式ではなく、その一つ一つに、相手を思いやる深い意味が込められているのだと。そして、知らないことは、決して恥ずかしいことではなく、知ろうとしないことが、本当に恥ずかしいのだと。あの日の冷や汗と赤面は、私を少しだけ大人にしてくれた、忘れられない授業料だったと思っています。