父は生前、常々こう言っていました。「俺が死んでも、葬式なんてするなよ。金もかかるし、みんなに気を使わせるだけだ。火葬場に直接行って、骨だけ拾ってくれれば、それでいい」。典型的な、昔気質の照れ屋だった父。私は、その言葉を、父らしいな、と半分冗談のように聞いていました。その父が、昨年、静かに息を引き取りました。いざ、その時を迎えると、私の心は大きく揺れました。本当に、父の言葉通り、お葬式をやらないで良いのだろうか。親戚たちは、何と言うだろうか。世間体を考えると、せめて家族葬くらいはやるべきではないか。そんな迷いの中で、私は父の遺品を整理していました。すると、机の引き出しの奥から、一冊の古いノートが見つかりました。それは、父がつけていた、いわゆるエンディングノートでした。そこには、震えるような文字で、改めて「葬儀は不要」と記されていました。そして、こう続いていました。「残った金は、母さんのために使ってやってくれ。孫たちのために、何か買ってやってもいい。俺のために、無駄な金を使うな」。その一文を読んだ時、私の目から涙が溢れ、迷いは完全に消え去りました。父は、最後の最後まで、私たちのことだけを心配してくれていたのです。父のこの深い愛情に応えるためには、世間体や慣習に流されるのではなく、父の遺志を、私が責任を持って貫き通すしかない。そう、覚悟を決めました。私は、親戚一人ひとりに電話をかけ、父のエンディングノートのことを正直に話しました。「父の最後の願いなので、どうかご理解ください」。最初は驚いていた親戚たちも、父の想いを知ると、最後には「お父さんらしいな。分かったよ」と、皆、温かく受け入れてくれました。私たちは、父の言葉通り、火葬の日に、ごく近しい家族だけで集まりました。火葬炉の前で、一人ひとりが父への感謝を伝え、大好きだった日本酒を棺に注ぎました。それは、儀式も、祭壇もない、本当にささやかなお別れでした。しかし、そこには、どんな立派な葬儀にも負けない、父への深い愛情と感謝の気持ちが満ちていました。葬儀をやらない。その選択は、決して故人への想いが薄いからではありません。むしろ、故人の遺志を最も深く理解し、尊重しようとする、究極の愛情の形なのかもしれないと、私は今、心からそう思っています。